病気と愛
Twitterの下書きに
残っていた記事があったので
少し追記して
ここに残そうかなぁ
わたしの生きる世界では
病気は悪じゃなくて、愛
って
半年前の下書きに書いてありました
今、言うならば
病気は悪じゃなくて、病気
そしてその根源にあるのが愛
という感覚ですね
やさしさから繋がる
地球の愛から
不合理、不条理、泪を受け入れた
その先にある
宇宙の深い愛
その違いですね。
わたしたちは
愛を学ぶために
地球にやってきています
そして人生の設計図
青写真を決めて
生まれてきています
よーし
今回は病気になって愛を学ぶぞ!
そんな風に
魂が決意をしているのでしょう
魂師の教えによると
病人や障害者に対して
差別だ!可哀想だ!
と嘆く現代思想は
病気や障害者のことを
悪だと思っているんですよね
たしかに。
そう言われてみると昔のわたしは
悪だと思っていたようです
病人は病人
障害者は障害者
ありのままを受け入れる
ありのままを受けいれるとは
その魂が
尊いものだと知っていること
愛というもの
障害者だから
仕事にハンデをつくって
可哀想だと思いながら
気を使うのは
たしかに不自然だなぁと感じます
人々の間に線引きはなく
わたし達は皆
運命を懸命に生きている魂
この概念を
わたしの仕事であらわすと、
病気で苦しい症状があれば
本人はその苦しさと戦っているのだから
魂は懸命に
運命と戦ってるのだから
わたしは看護師として
可哀想・・・ではなく
愛のエネルギーを送ります
今は、愛で包み込みます
可哀想という感覚は
家族が出来るんです
誰でも出来るんです
けれども
わたしは家族ではなく看護師です
もちろん
苦しいだろうと思う時
患者さんの心に寄り添うことも大切でしょう
ただそればかり重視するのは
1番自分が楽な方法だと
自らの経験から知っています
悲しみに寄り添うのは
地球的な愛のかたち
相手が
悲しみ苦しんでいる時こそ
背中をバーンと叩いたり
笑って飛ばしてあげるのが
宇宙的な愛のかたち
ただ、相手によって
そのかたちは調節します
悲しみや苦しみという
降りかかるエネルギーに流されず
カルマという霧の中の患者さんに
手を差し伸べて
引っ張り上げたり
背中を押すのが
真の医療者だと思っています
おんぶしたり
ゴールテープまで
一緒に走るようなことは手放しました
そのお役目をする人がいるから
あえて自分の役目を放棄して
生きるようなことはいたしません
こっちの顔なんて
見えなくて良いんです
感謝されなくて良いんです
押した背中が
後ろを振り向かずに前に進めたら
それで良いんです
その背中を
ずっと眺めているようなことも
いたしません
それはもっと上の方で
見守るお役目の存在がいるでしょうから
わたしはわたしのステージで
わたしの役目を果たします
辛い感情に寄り添う時は
手を握ったり
身体に触れながら
大丈夫ですよ
と、宇宙の愛のエネルギーを
送ってきました
最近では
意図してそうしなくても
わたしが宇宙
大丈夫だよ
と、愛で包み込んでいます
目の前で
死の形相で苦しんでいても
殺してくれと爪を立てられても
わたしの手の中で死を迎える時も
おんなじです
正直、
こういった状況は
少しざわざわと
わたしの軸が揺らぎます
目に見えない視点での
エネルギーの動きは
わたしは巫女という運命と戦っているので
少しどころじゃないはずです
2年前までの自分なら
患者さんや家族より先に
ボロボロと
大粒の涙を流していました
その時も今も
真ん中にあるものが
自分の信じる愛というのは
変わりません
今のわたしは
こんなときでも
感情はほとんど左右されません
目の前のどんな現象も
運命であり
目の前の存在にとって
わたしにとって
愛の現象だと知っているから
次第に患者さんは落ち着きます
わたしを通して
宇宙の愛のエネルギーが
目の前の存在を
愛で癒してくれます
なおかつ最近では
目の前で死にゆく人の
枕元にいるであろうスピリット達に
この魂の運命を燃焼できるように
しっかりサポートしてあげてください
とお伝えします
目に見えない世界にいるわたしは
目に見えるものに左右されない
けれども
目に見える世界を生きるわたしは
看護師という
目に見える役割があるから
目に見えないものたちを
目に見えるものに落とし込む
自分なりの愛を形にするだけ
ただそれだけ
これからも進んでいくだけ