Mel Channel

ただ宇宙を想い、運命を愛する

殻が破れた

 

知り合い全員に

大好きを届けたい

そんな気分です。

 

1週間前に

インフルエンザーになり

体調を崩したことで

殻が破れた感覚があります。

 

今の職場は

不定愁訴、風邪、コロナ、

腸炎、インフルエンザと

しょっちゅう職員が休んでいて

皆の免疫力が低いのか

ワクチンの影響か

子どもと距離が近く移りやすいのが

どれほど影響するのか

ほんとうによく体調を崩して

おやわさんね

と思っていました

 

そんなわたしは

今の職場に来てから

最も忙しかった秋頃に

1度体調を崩したのですが

絶対に崩れるものかと

死に物狂いで過ごし

休まず出勤していました

 

休むのが怖いのではなく

休むのが嫌なのではなく

そもそも休む概念がなく

「死にやしない」

っていうのが心の中の口癖なので

風邪を引いたくらいじゃ

少し辛いくらいじゃ

死にやしないで

乗り切ってきたんですよね

 

なんでそんなに

気張っていたのか

 

思えば

保育士の世界に

看護師1人で飛び込んで

 

園長先生はじめ保育士たちが

「看護師さんにバカにされちゃう」

「保育士はこんなこともできないのかと思われちゃう」

と冗談風に度々口にしていて

きっと保育士たちも

バカにされないように

気を張ってたのでしょう

 

今思うと、わたしも

ただ1人の看護師として

的確に判断して働かないとと

非常に気を張っていたんですね

 

わたし自身は

バカにされる不安は

ありませんでしたし

周りをバカにしていたわけではなく、

保育士世界では

こうなのか、そうか…

という

落とし込みに必死だったんですね

 

わたしにとって1番の戦いは

保育士世界に飛び込んできた時の

「今までの看護師世界からすると

ありえないんですけど!?」

っていうことでした。

 

「咳が出てて喉が痛かったから

あの時コロナだったんだろうな~キャハハ」

面と向かって食事してる最中に

「咳がめっちゃ出て治らないんだけど

仕事休むと給料入らないの嫌だから検査するわけないよね~」

「実は昨日まで38℃超えの熱があったけど、熱は治まったので来たのよ~。咳は出るんだけどね~ゲホゲホ」

などと聞いた時に

あまりの責任のなさに

言葉を失いました

 

コロナ病棟のときは

体温37.5℃以上は

問答無用でコロナ検査

咳や喉の違和感だけで休み、

自主的にコロナ検査

面と向かって喋りながら食事なんてしない

消毒しなさすぎ

ていうかそもそも

体温計や手指消毒アルコールが

ホコリだらけなことが意味わからない

こんな管理状態で保護者に

熱計ってください

消毒してください言ってるのかい?

 

と、目も耳も疑う世界でした

 

でもこれはこの人たちが

悪いわけではなく

看護師世界では当たり前のことが

ここでは当たり前ではないということ

逆もまた然り

 

看護師世界がいかに真面目集団か

目の当たりにしました

 

バカみたいだよね

でもバカみたいなことを

時にバカみたいと思いながらも

バカみたいにやってきたんですよ

 

でもね

わたし自身、コロナ病棟勤務の時

毎朝熱なんて測ってなかったんですよ(笑)

体感でわかるので

毎日適当な数値書いてたんですよ(笑)

 

咳が出ても

霊障によるものだと分かっているので

自主的に休んでコロナ検査なんて

したことないんですよ(笑)

 

まぁこれは

わたし自身が人間の枠から外れてる

というのがベースにあるからなのですが

 

今思えば

わたしは同じことできないけど

コロナ病棟の環境に適応して

一丁前に働いてたということですね

 

そしてその現代医療の

キッチリした水準で働いていた中で

保育園に飛び込んだ時の

衝撃が大きかったんですね

 

保育士の言動に対し

「その根拠は?」と思う自分に

自分自身が

看護学生の時から言われ続けた言葉を

自分が思う日が来るなんてと

不思議な苦悩でした

 

「根拠は?」は

看護学生あるあるではないでしょうか

 

医療世界は通常、

人様の命相手に仕事をするので

根拠があり

それをわかった上で行動し

評価し、課題を見出しますからね

 

それがどういうことか。

今の職場で

根拠ナッシングの保育士たちを見て

「根拠」というものは

筋が通っているということ

仕事に責任を持つということだと

分かりました。

 

仕事に責任をもっている人は

根拠があるかないか

分かっているということや

 

今この人、目の前の仕事に

責任をもっているか

というようなことが

見て分かるようになりました

 

わたしは保育士世界に来て

「そうじゃないでしょう」

と思うことで

同じことが出来なかった頃の

自分の過去に立ち戻り

その当時の先輩の気持ちを今体感し、

時を経て

自分の学びが深まっていることを

体験していたのです。

 

保育士の言動により

過去の自分に立ち戻り学ぶ期間を過ぎると

保育士に対し

甘んじることなく

自律しなさい

と思うようになりました

 

ようするに

「それは誠か」

「そこに愛はあるのか」

というものを

心の中で問うようになりました

 

幼少期から

「それは優しさ?」

「何が優しさ?」

と自分や他人に

心の中で問いながら生きてきたわたしですが

 

気付いたら今は

自分、他人と明確に分けて

他人が悪い!と

突っぱねるのではなく

 

他人の行動もまた

わたしの世界で起きていることとして

共に学ぶような姿勢で

冷静に問うてるような感覚です

 

感情的ではない

けれども静かに立っている

どこか感じる圧迫感

 

誠じゃない

愛じゃないことに対して

わざわざ

自分が甘んじて

人に合わせるようなことはしませんでした

 

わたしはできないことを

なんでできないのと

責めることはしません

 

わたしだって

できないことは沢山ある

 

自分もそうだから人にも

というより

それが問題ではないと知っている

わたしの世界では

できないことは問題じゃないからです

 

わたしが問うてるのは

できないならできないと

自分で言うのが筋でしょう

誰かなにかのせいにするのはきらい。

相手がしてくれない

相手が察してくれないじゃなくて

自分はここが出来なくて

ここに助けが欲しいから

ここを助けてください

というのがあなたの責任じゃないでしょうか?

人に求めるのはやめなさい。

自律してください。

 

そんなふうに思っていましたが

わたし自身が

人に求めていたんだと気付きました

 

それじゃあ上手くいかないんだ

それはわたし水準の世界なんだ

わたしが傲慢でした

 

肩肘張らずに

この環境を生きようと思いました

 

そんな行動して欲しくないから

わたしもそれに加担しない

 

そういう理屈じゃなくて

形はどうであれ

わたしがわたしらしく

わたしが穏やかで

わたしが笑顔でいることで

ぜんぶ上手くいくんだろうなって

そんなふうに

思えるようになりました

 

ちなみに

子どもと保護者には

包み込むような愛で接しています

マリアです。キラキラ✨

わら

 

同僚にもやさしくします

いや、元よりわたしは普通に

やさしいんですけどね(笑)

 

中国のことわざで

一年先は花、十年先は木、百年先は人を育てる

というものがあるそうです

 

愛が深くなることで

人間レベルでは厳しく感じるのでしょう

バランスが必要ということですね

 

目の前の「救った風」より

本当に相手のためになることも見えるが故

厳しく見られることが

あるんだろうなと思いました

 

まぁ

真面目が故

こんなことを言っていますが

わたしの雰囲気的に

わたしのことを全然厳しくなく

何でも受け入れてくれると思ってる人も

一定数います

 

なのでバランスはとれていて

人間関係に問題はないのですが

 

父がポンになったり

インフルエンザーになったりして

仕事の休み明けに

職場がパラレルチェンジしていました

 

病み上がりに優しくされて

大袈裟な

なんて思うかもしれませんが

思っていた以上に

人間は弱く

人間は優しい

わたしはそんなふうに思いました

 

わたしは強く見られがちなので

わたしの弱さが見えたことで

隙間が埋まったような気もします

 

まぁ傷の舐め合いは

求めてないのですが

 

こんなこと言うから

とんがっちゃうんですけどね

うしし

人前では言いませんよ

ここも人前か

うしし

 

わたしが言いたかったのは

わたし自身の

無意識の気張りが解けたから

だと思います

 

もっと肩肘張らずに

この環境を生きようと思いました

 

職場の人に限らず

多くの知り合いにそう思った。

ありがとう。

大好きよ!!!✨